※本記事に登場する事例はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。なお、医学的な内容は、執筆時点の医学的知見および参考文献に基づいています。精神科医として、似たような構造の崩れ方を何度も目にしてきたため、イメージしやすく記載しています。
「死ぬ、死ぬ、死ぬ」——うつ病で判断を誤った、ある経営者の話
こんなケースを想像してほしい。
ある経営者が、診察室に連れられてきた。 その人はぶつぶつと、小声で何かを呟き続けていた。なかなか聞き取れなかった。ようやく耳を近づけて聞き取れたとき、私は言葉を失った。
「死ぬ、死ぬ、死ぬ……」
ただ、それだけを繰り返していた。
経営を続けるなかで深刻なトラブルに見舞われ、会社も財産もすべてを失ったという。緊急入院となり、治療を経てようやく会話ができるようになった。入院当初は、まともに言葉を交わすことさえできなかった。
診察してすぐ、診断はうつ病だとわかった。ただ、その人がどんな経過をたどってここまで来たか詳しいことは、家族からの話を聞いたり、治療が進み、会話が戻ってきて本人から聞けるようになってから少しずつ明らかになっていった。
突然すべてを失ったわけではなかった。少しずつ、うつ症状が出始め、徐々に悪化していた。早朝に目が覚めてほとんど眠れない。食欲が湧かない。考えがまとまらない——そういう日々が、続いていた。
「会社にこもりっきりで、昼も夜もなく対処に追われていた。眠る時間を作るという発想すら、なくなっていた」——と、後に語った。
そして——うつ病によって判断能力が著しく低下していたそのタイミングで——重大な書類へのサインを求められ、取り返しのつかない判断をしてしまった。
それは、意志が弱かったからではない。うつ病という疾患によって、脳が、まともに機能していなかったからだ。
うつ症状があるとき、重大な決断をしてはならない。 そして忘れてはならないのは——睡眠の異変は、うつ病のもっとも早いサインのひとつだということだ (1)(2)。
経営者にとって、眠れなさは、単に「疲れているサイン」ではない。脳が壊れ始めているサインかもしれない。
睡眠不足が「脳を壊す」メカニズム——経営者が知っておくべき医学
睡眠不足は、単なる「疲れ」ではない。脳を壊す、という強い表現をあえてしたが、要は、脳の働きそのものを変えてしまうということだ。
・扁桃体が過敏になる
睡眠が不足すると、感情を司る扁桃体が過活動状態になりやすい。怒りやすくなる、不安が増す、些細なことで動揺する——これは性格の問題ではなく、脳が「危険モード」に入りやすくなっている状態だ (3)(4)。
経営者であれば心当たりがあるかもしれない。眠れない時期に、なぜかスタッフへの言葉がきつくなった。取引先への返信が感情的になった。あれは単に「器が小さかった」のではない。睡眠不足によって、感情を制御する脳の働きが弱っていた可能性がある。
実は私自身も、家事が片付かず、夜中の三時にアイロンをかけていた日のことを覚えている。翌日は普段よりずっと余裕がなくて、家族へのちょっとした受け答えが、つい硬くなる。普段なら「まあ、いっか」と流せることに、苛立ってしまう。あとで自分の声を思い出して、こんな言い方をする人間だっただろうか、と自己嫌悪に陥った。眠れていない脳は、自分でも気づかないうちに、声の温度を変える。
・前頭前野の機能が低下する
もっと深刻なのが、前頭前野への影響だ。前頭前野は、論理的思考・リスク評価・衝動の抑制を担う、いわば「理性の司令塔」だ。
扁桃体をアクセル(危険反応・感情)と表現するなら、前頭前野はブレーキ(理性・制御)のようなものである。
睡眠不足が続くと、この前頭前野の働きは著しく低下する。つまり、長期的なリスクを見落としやすくなったり、目先の利益に飛びつきやすくなったり、「何かおかしい」という違和感を見逃しやすくなる。
判断力が落ちた人間は、正常な時なら避けられたはずの意思決定をしてしまう。睡眠不足は、それほど認知機能に影響を与える。
・コルチゾールが慢性的に乱れる
睡眠不足は、副腎皮質ホルモンの一種であるコルチゾールの分泌にも影響を与える。コルチゾールは本来、ストレスから身体を守るための重要なホルモンだ。短期的には集中力や緊張感を高めることもある。しかし、この“常にストレス警報が鳴っている”ような過覚醒の状態が慢性的に続くと、気分や記憶の調整、免疫の働きにじわじわと負担がかかり、抑うつへと傾きやすくなると考えられている (2)(3)。
「眠れないけど、緊張感で乗り切れている」と感じている経営者ほど危ない。
ストレスによる興奮状態を、「調子がいい」と錯覚しているケースも少なくない。
経営者が特に危ない、3つの理由
① 「睡眠時間が短い=仕事に向き合っている」という錯覚
睡眠を削ることが「美徳」だ、という文化が、経営者の世界には根強い。
だが、これは完全な逆効果だ。
そして「起きている時間が長い分、生産性が上がる」というのも大間違いだ。
あるYouTuber——同時に経営者でもある人物——が、朝のライブで、睡眠研究の大学教授の見解としてこう紹介していたという。「寝ないとろくなことにならない」と。私が診察室で伝えてきたことと、同じ結論だった。専門家の言葉が、こうして広く届いていることを、素直に嬉しく思う。
もちろん、世の中には4時間睡眠で精力的に活動している人もいる。ただしこれは、ショートスリーパーと呼ばれる特殊な体質で、全人口の1〜3%とされる。「自分もそうかもしれない」「そうなりたい」と思うのは危険だ。そのショートスリーパーでさえ、体調を崩せば寝込むし、入院すれば就寝・起床時間を管理される。
体の回復に、睡眠は不可欠なのだ。
意思決定の質は、睡眠時間が極端に短いと落ちる。4時間睡眠で下した判断は、8時間睡眠のときと比べて、リスク感覚が大幅に狂っている (3)。
起床後の脳は、時間経過とともに注意力や記憶力、創造性の低下が起きる。起床から16〜18時間を超えると、認知機能はかなり落ちるため、生産性は上がるどころではない (3)。
② 弱音を言える相手がいない
社員には言えない。家族には心配させたくない。
体調管理も自分に責任がある、として、自身の異変や体調を崩したことを部下や家族に隠そうとする。
冒頭のフィクションの経営者もそうだ。家族には、眠れていないことを伝えられないままだった。 というより、会社に昼夜こもり、対処に追われて、そもそも寝る時間を作るという発想がなくなっていた。 判断の重さも、眠れなさも、誰にも見せないまま、夜だけが長くなっていく。
そうして一人で抱え込むうちに、異変に気づかないまま限界を超える。孤独な意思決定が続くほど、脳への負荷は蓄積する。
心の病を発症していることにも気づけず、手遅れになってしまう場合がある。
③ 判断の”全責任”が自分にある
経営者は、逃げ場がない。どんな状態であっても判断を求められる。
脳が機能不全を起こしていても、会議は来るし、契約書は届く。
寝込んでいても、部下から連絡が来る。
しかも——弱っている経営者は、詐欺師にとって格好の標的になる。冒頭の患者さんが遭ったのは、まさにそれだ。
だからこそ、脳を守ることが最優先の経営判断になる。
参謀医Reimyが、あなたに伝えたいこと
睡眠は、怠惰ではない。戦略だ。
冒頭に挙げたケースは、あくまで作り話だ。しかし多くの症例をもとに、あなたがイメージしやすいようストーリーとして描いた。精神科医として、こうした崩れ方を、私は現実に何度も目にしてきた。
私が見てきた「崩れていく経営者」には、ある共通点がある。
睡眠を削り、弱音を隠し、「まだ大丈夫」と自分に言い聞かせながら、静かに限界を超えていく。
あなたの脳は、あなたの会社の最重要資産だ。
眠ることを、後回しにしないでほしい。SOSを出すことを、恥だと思わないでほしい。それもまた、経営判断のひとつだから。
もし今、「自分もそうかもしれない」と感じているなら——絶対に一人で抱えないでほしい。信頼できる医療機関や、身近な誰かに話すことが、最初の一手になる。
いつか、あなたが、 自分や家族だけでなく、 後輩や部下を守り、育てていくような仕事を担うようになった時、 この話を思い出してほしい。 読み返してほしい。
参謀医Reimyより
免責事項
本記事は睡眠と心の健康に関する一般的な情報提供・啓発を目的としたものであり、個別の診断や治療に代わるものではありません。記載した医学的内容は、執筆時点の医学的知見および末尾の参考文献に基づいていますが、症状や適切な対応には個人差があります。心身の不調を感じる場合は、自己判断せず、医療機関や主治医にご相談ください。
参考文献
(1)Freeman D, Sheaves B, Waite F, Harvey AG, Harrison PJ. Sleep disturbance and psychiatric disorders. Lancet Psychiatry. 2020;7(7):628–637. doi:10.1016/S2215-0366(20)30136-X
(2)Riemann D, Krone LB, Wulff K, Nissen C. Sleep, insomnia, and depression. Neuropsychopharmacology. 2020;45(1):74–89. doi:10.1038/s41386-019-0411-y
(3)Krause AJ, Simon EB, Mander BA, Greer SM, Saletin JM, Goldstein-Piekarski AN, Walker MP. The sleep-deprived human brain. Nature Reviews Neuroscience. 2017;18(7):404–418. doi:10.1038/nrn.2017.55
(4)Palmer CA, Bower JL, Cho KW, Clementi MA, Lau S, Oosterhoff B, Alfano CA. Sleep loss and emotion: a systematic review and meta-analysis of over fifty years of experimental research. Psychological Bulletin. 2024;150(4):440–463. doi:10.1037/bul0000410


コメント